サガフロンティア2(1999, プレイステーション, スクウェア)について語るとき、BGMについて触れることは避けられないだろう。

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コンポーザーに、これまで全てのサガシリーズの作曲を行っていた伊藤賢治ではなく新たに濱渦正志を起用。濱渦は、主となるメロディをおよそ3つにまで絞り込み、特定の旋律を複数曲に渡って多用する事で統一感を生み出しつつ幅広いバリエーションを持たせるという手法を取った。前作までの作曲を担当した伊藤賢治の派手な曲調と比べて穏やかな曲調が多い。
(Wikipedia サガフロンティア2より抜粋)

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出典:http://dengekionline.com/elem/000/000/887/887905

 『サガフロ2』は、全編を通じて同じメロディが使われている。
 多様なアレンジが施されているので同じ曲はひとつもないし、パッと聴いた印象も異なるが、根本に脈々と流れるものは一貫しているのだ。
 それはまるで、清流も激流も支流の小川もあるがそのすべてがつながっている、一本の大きな河のように感じられた。


 ただ、はっきり言ってしまうけれど、このBGMは発売当時、けっこうな賛否両論を巻き起こした。
 好評の声があるいっぽうで、「手抜きだ」なんて声も多く聞かれたのだ。 

 ぼくはあらゆるゲームミュージックのなかでサガフロ2のそれが最高だと思うほど好きだが、当時、このBGMを批判していた人たちの気持ちもよくわかる。
 おそらく、サガフロ2のBGMを酷評した人たちは、本当に楽曲そのものがダメだと思っていたわけではない。
 彼らはサガフロ2を単独のゲームとしてではなく、「あのサガフロの続編」として期待していたから、あまりのギャップにBGMを含めた作品全体を批判せざるを得なかったのだ。 


 初代『サガフロンティア』は、短い7つのストーリーを好きに遊んで楽しむゲームだった。シナリオもシステムもBGMも、激しさや爽快感や自由をとことん追求した良作だった。
 それは、イメージとしては遊園地に近い。ジェットコースターやフリーフォールやお化け屋敷があり、どれから遊んでもいい。どういう楽しみ方をしてもいい。全アトラクションを制覇してもいいし、何度もジェットコースターに乗り続けてもいい。

 対して、サガフロ2は前述の通り「一本の大きな河」だった。いわば文字通りの大河ドラマであった。
 「歴史」という絶対的な道筋があり、その年表はゲームスタート時点からプレイヤーにある程度明示されている。
 ゆえに、初代サガフロにあった激しさや爽快感や自由度は、そこにはほとんどない。 プレイヤーは川の流れに沿って歩くことしか許されない。

 そして、その道中でプレイヤーが目にするのは、変えられない運命のなかで、それに翻弄されながらも必死に抗う者たちのドラマ。無力にも流れに呑み込まれてしまった者たちの悲哀と、無力ながらわずかに爪あとを残した者たちの意地。 


 サガフロ2の独特のBGMは、まさにその体現だった。
 変わらないメロディは、揺るがない歴史の河。時代や主人公によって変わるアレンジは、運命に立ち向かう人間の生命力。
 BGMで端的に表現されたそれこそが、サガフロ2の本質であったとぼくは思う。

 サガフロ2は、それらを楽しむゲームだった。
 初代サガフロとはまったく逆に、切なさや無力感や不自由こそを噛みしめるべき良作だったのだ。


 そんなサガフロ2は、単独のゲームとして見れば、おそらく文句のつけようがなくすばらしいものだった。
 しかし、「激しく爽快で自由なサガフロの続編」として見ると、「なんじゃこりゃ」とならざるを得ないものだった。 

 発売から十数年が経ち、それぞれが別個のゲームとして再評価されるようになったいまでは、サガフロ2のBGMや、サガフロ2そのものについて肯定的な意見が非常に多い。
 それこそが、当時サガフロ2がサガフロ2として世に出てしまったことの不幸を証明していると思う。


 
 約一世紀に渡る長い長い歴史を、その断片をたぐり寄せながらたどる、サガフロンティア2の物語。
 ともすればぶつ切りになりがちなそれを一本の大きな河として完成させたのは、間違いなく、BGMの功績だったと思う。





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スクウェア・エニックス
2006-02-01